2022年9月27日、安倍元首相の国葬が執り行われました。
その中で特に人々の心に刺さったのが、菅義偉元首相の弔辞でした。
ネットでは、「菅さんの弔辞が泣ける」という多くの声があふれています。
また「まるで恋文」という声もあります。
菅さんと安倍さんには不仲説もありましたが、弔辞で「朋友」と語られました。
こちらの記事では
- 菅義偉と安倍晋三の仲は朋友以上!最後の「恋文」のような弔辞が泣けた
というテーマで、菅さんの安倍さんへの弔辞とお二人の仲を振り返ってみたいと思います。
菅義偉と安倍晋三の仲は朋友以上!親しくなったのは2000年頃から
2022年9月27日、安倍晋三元首相の国葬で、全部で5人の方が追悼の辞を捧げました。
最初に岸田首相、細田博之衆議院議長、尾辻秀久参議院議長、戸倉三郎最高裁長官が「追悼の辞」を捧げました。
最後に、式壇の前に立ち、追悼の辞を捧げたのは、「友人代表」の菅義偉元首相でした。
菅義偉元首相のスピーチは、普段のクールなイメージと違い、安倍さんへの募る思いがあふれていました。
自分の言葉で、時に声を震わせながら、心からの悲しみを表現した菅義偉元首相の言葉が心に刺さったという人がネットでも、本当に沢山いました。
安倍内閣で、官房長官を務め、女房役として、安倍晋三元首相を支えただけでなく、プライベートでも仲が良かった菅さんと安倍さんの仲はまさに朋友。二人のエピソードは、多くの人の目に涙があふれました。
二人は、よく語り合ってきたといい、弔辞では、最初の出会いの時の会話や、安倍さんに2度目の総裁選の出馬を進言したときの様子が語られました。
二人が仲良くなったきっかけは?
親しくなったのは、2000年頃で、その頃、自民党の中でも一匹狼的な存在だった菅さんに安倍さんから「会いたい」と電話があったとのことです。
菅さんにとって、安倍さんは「あこがれ」の政治家でした。
当時、自民党内での対北朝鮮の政策案に大反対をした菅さんのことを新聞で知り、
「菅さんの言っていることは正しい。北朝鮮による日本人拉致問題の解決に向けて、一緒に行動してもらえればうれしい。拉致問題は国で解決しなければならないと思っている」
と言われたそうです。その時、菅さんは、この人はいつか天下を取るだろうと確信したとのことです。
それをきっかけに親しくなり、菅さんの地元で安倍さんが講演してくれたこともあったそうです。
その頃の安倍さんは?
2002年9月、安倍さんは小泉純一郎内閣の官房副長官として、小泉純一郎総理の北朝鮮訪問に同行しました。
北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)国防委員長(当時)は、長年否定していた日本人の拉致を初めて認めて謝罪しました。
当時日本政府が認定していた拉致被害者13名のうち4名は生存、8名は死亡、1名は北朝鮮入境が確認できない旨が伝えられました。認定されていなかった曽我ひとみさんの生存も確認されました。
その後すぐに、事実調査チームが北朝鮮に派遣され、生存者と面会など、情報収集に努めました。
そして、2002年10月15日、拉致被害者5名が帰国し、家族との再会を果たしました。
安倍さんは当時、時の人として、有名になりました。
安倍元首相は、第一次政権でも、第二次政権でも拉致問題を最重要課題と位置づけてきました。
「二人で銀座の焼き鳥屋に行き、あなたを口説きました」
弔辞のこのくだりでは、会場から嗚咽が聞こえてきたとのことです。
あなたは一度持病が悪くなって総理の座を退きました。
そのことを負い目に思って2度目の自民党総裁選出馬をずいぶんと迷っておられました。
最後には2人で銀座の焼き鳥屋に行き、私は一生懸命あなたを口説きました。それが使命だと思ったからです。
3時間後には、ようやく首を縦に振ってくれた。
私はこのことを菅義偉、生涯最大の達成としていつまでも誇らしく思うであろうと思います。
菅義偉元首相の弔辞より
2012年9月、自民党の総裁選が行われました。菅さんは、安倍さんを口説き、総裁選の出馬を後押ししました。
それから、総裁選に向けて菅さんが奔走した甲斐があり、見事安倍さんは総裁に返り咲きました。
「安倍元総理は私にすごく感謝してくれているというのはよくわかりました」
と菅さんはインタビューで語っています。
菅さんは第二次安倍政権では、官房長官に就任して安倍さんを支え、在職期間は歴代最長となりました。
菅義偉から安倍晋三へ最後の「恋文」のような弔辞が泣けた
菅義偉から安倍晋三への弔辞は、まるで愛する人にあてた最後の「恋文」のよう。管さんの弔辞が「泣けた」とのツイートが多く流れています。
菅さんの情緒的な言葉の数々。愛する人との最後のお別れ。心からの言葉に涙。
「7月の8日でした。信じられない一報を耳にし、とにかく一命をとりとめてほしい。あなたにお目にかかりたい、同じ空間で同じ空気を共にしたい。その一心で現地に向かい、そしてあなたならではのあたたかなほほえみに、最後の一瞬接することができました」
「あの運命の日から80日がたってしまいました。あれからも朝は来て、日は暮れていきます。やかましかったセミはいつのまにか鳴りをひそめ、高い空には秋の雲がたなびくようになりました。」
「あなたという人がいないのに、時は過ぎる。無情にも過ぎていくことに、私は、いまだに、許せないものを覚えます」
「しかし、安倍総理…と、お呼びしますが、ご覧になれますか。武道館の周りには、花をささげよう、国葬儀に立ち会おうと、たくさん人が集まってくれています。二十代、三十代の人たちが少なくないようです。明日を担う若者たちが、大勢、あなたを慕い、あなたを見送りに来ています」
「そして、日本よ、日本人よ、世界の真ん中で咲きほこれ。―これが、あなたの口癖でした」
「次の時代を担う人々が、未来を明るく思い描いて、初めて、経済も成長するのだと。いま、あなたを惜しむ若い人たちがこんなにもたくさんいるということは、歩みをともにした者として、これ以上に嬉しいことはありません。報われた思いであります」
「覚悟と、決断の毎日が続く中にあっても、総理、あなたは、常に笑顔を絶やさなかった。いつも、まわりの人たちに心を配り、優しさを降り注いだ。総理大臣官邸で共に過ごし、あらゆる苦楽を共にした七年八か月。私は本当に幸せでした。私だけではなく、すべてのスタッフたちが、あの厳しい日々の中で、明るく、生き生きと働いていたことを思い起こします」
「何度でも申し上げます。安倍総理、あなたは、我が日本国にとっての、真のリーダーでした」
「衆院第1議員会館1212号室のあなたの机には読みかけの本が1冊ありました。岡義武著『山県有朋』です。ここまで読んだという最後のページは端を折ってありました。そしてそのページにはマーカーペンで線を引いたところがありました。 印をつけた箇所にあったのは、いみじくも山県有朋が長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人をしのんで詠んだ歌でありました。いまこの歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。」
「かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」
感動的なスピーチの結びに会場からは拍手が沸き起こりました。
このスピーチは人々の心に深く染み入りました。
話し方は静かないつもの菅さんでしたが、憂いを帯びた表情に見ている者の胸が痛みました。
時に声を震わせ、悲しみや心情をさらけ出すような言葉の数々は感動的でした。
安倍さんを「あなた」と呼び、「総理」と声をかけました。
菅さんにとっての総理は永遠に安倍さん一人なのだと気づかされました。
菅さんから安倍さんへ、最後のお別れの言葉は「恋文」のようでした。
今、菅さんへ「素晴らしいスピーチをありがとうございました」という声があふれています。
最後の最後まで安倍さんを支えたのは菅さんでした。
まとめ
菅義偉と安倍晋三の仲は朋友以上!最後の「恋文」のような弔辞が泣けた
というテーマでお伝えしました。
コメント